2019年04月12日

ホームズとストラデイヴァリ

 シャーロック・ホームズは、時々コカインを飲むが、また、時々ヴァイオリンも引く。最初の冒険、「緋色の研究」(1987刊)の中で、既に、ヴァイオリンの話が出てくる。

”,,,,at my request, he has played me some of Mendelssohn's Lieder, and other favourites.”

“My companion was in the best of spirits, and prattled away about Cremona fiddles, and the difference between a Stradivarius and an Amati.”

 ところでホームズは、「ボール箱の冒険」(1983)で、ストラデイヴァリを買う。

“,,,,Holmes would talk about nothing but violins, narrating with great exultation how he had purchased his own Stradivarius, which was worth at least five hundred guineas, at a Jew broker's in Tottenham Court Road for fifty-five shillings.”


「ボール箱の冒険」は、1983年の出版であるが、事件が起きたのがいつかは、わからない。また、「緋色の研究」は、1987年の刊行だが、事件は、ワトソンと二人が共同生活を始めてから、すぐに起こったもののようで、1981年となる。ホームズ年代学というのがあって、いろいろな研究家が、種々の事件が何時起こったのか明らかにしようとしているが、「緋色の研究」は、だいたい、1881年が定説のようである。「ボール箱」の方は、1885年とする説もあるが、1889年の方が多いようである。どちらの説でも、「緋色」の方が年代的に早く、その中で、ホームズが弾いたヴァイオリンは、ストラデイヴァリではなさそうである。もしそうなら、ホームズはストラデイヴァリを2本持っていたことになる。

 さて、わからないのは値段である。500ギニーの価値があるのを55シリングで買って大喜びした、と書いてある。500ギニーというのは、525ポンドになる。また、55シリングは、2.75ポンドである。当時の1ポンドが今のいくらになるかは、なかなか難しい問題だが、しらかわという人のサイト「コインの散歩道」で非常に詳しく研究されていて、それによると1ポンドは最低でも5万円にはなるだろうとのことである。それにしても、2.75ポンド=13万7500円は、あまりにも安いと言わざるを得ない。

 では当時ストラデイヴァリは、いくらくらいで取引されていたのか。英国にChambers's Journal という週刊誌があって、1882年から1950年代まで発行されていた。それ自体驚くべきことだが、その1896年7月11日号に、タスカン・ストラッドと呼ばれるイタリアのトスカーナ大公が注文し1690年に作製されたストラデイヴァリの歴史が書かれている。

スクリーンショット 2019-04-12 19.32.26.png

 「1690年にストラデイヴァリは、トスカーナ大公の為に4つの楽器を作製した。1世紀の後、そのうちの1つが消えてなくなり、そして1794年にモゼリというフィレンツエの音楽家がカーという英国人に25ポンドで売った。彼は、楽器を英国に持ち帰り、孫の代になって、1876年に、リカルドという人物に240ポンドで売られた。そして1888年にヒル商会に1000ポンドで売られた。その後、現在の(1896年現在)持ち主に売られたが、2000ポンドという売値は断られた。」
 
 同じ記事の中で、著名なバイオリニストのヨアヒムが持っている4つのストラデイヴァリのうちの一つは、リンゼイ夫人から1200ポンドで買ったが、リンゼイ夫人は、ある人から600ポンドで買い、その人は、また、別の人から180ポンドで買ったという話が出ている。

 このように見るとホームズが買ったストラデイヴァリが500ポンドの価値があるというのはうなずけるが、55シリングで買ったというのは、腑に落ちない。ただ、ホームズは、結構なお金持ちであったから、500ポンドで買ったと書いてあっても読者は納得したはずであって、そうだとすれば、実際にユダヤ商人から55シリングで買ったという人がドイルの身近にいたのかも知れない。
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2019年04月05日

マーロウ3

ハードボイルドという言葉は、もはや、一部の探偵小説愛好家を除けば、ほとんど使われていないように思われる。知っている人であれば、すぐにレイモンド・チャンドラーの名前が頭に浮かび、フィリップ・マーロウの姿が目に浮かんでくる。そのマーロウはいろいろと名言?を残しているが、日本で一番知られているセリフが出てくるのは、チャンドラー最後の長編「プレイバック」である。

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I wasn’t gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”

「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」(清水俊二訳)

この文章の翻訳はいろいろとあるようだが、”hard”という単語はチャンドラーの小説の中ではいろいろな意味で使われている。いわゆるタフガイ的な意味の時もあるし、金銭的に「カタイ」という場合もある。プレイバックでは、この場面(一夜を共にした女性から、翌朝、「だれかを愛したことがあるか」と聞かれて、「さあ、行こう」と、これからしなくてはならない行動を取ろうとする時に、「こんなに”hard”な人がどうしてこうもやさしくなれるのか」と言われて、言い返す場面)では、「その場の状況や感情に流されて行動せず、やるべきことをやる」という意味で使われていて、そういう点から見て、清水さんの訳が納得できる。

ただ、最初のペーパーバックのカバーには、”Philip Marlowe, steel-tempered, tough and true”という文字が見える。

chandler_playback_1960_cardinal_375_billrose.jpg


プレイバックは、チャンドラー最晩年の1958年の作品だが、1949年に完成した同じタイトルの映画の脚本を書き直したものである。映画にはならなかったが、かなりの収入があったとされている。登場人物の名前とか、ヒロインが逃げ出す背景の事情とかは同じだが、マーロウが出てくるわけではなく、他の長編も、以前に書いた短編の書き直しがあるが、それと似たような感じである。つまり一部はそっくりだが全体のストーリーは全く違う。

この作品については、プロットが雑だとか、結末が安直だとか、2人の女性とのセックスなどマーロウらしくないとか、本筋と無関係な枝葉が多いとか、いろいろと批判がある。時間的な齟齬もあり、2日前のことを昨日のこととして語ったりしている部分がある。また、かなり最初の方で、べテイとミッチェルの会話の中に、判事とか陪審員とかの言葉が出てきて、マーロウはこれを盗み聞きしている。(原文はやや曖昧でわかりにくく書いてあるが、清水さんの訳では、判事が陪審員の評決をひっくり返したことが明確にわかるようになっている。)その後、マーロウは、べテイや雇い主の弁護士に背景となる事情の説明をしつこく求めるのだが、一度もこの判事とか裁判のことを取り上げて、追及することをしない。推理小説としては一種のフェアプレイではあるが、従来からのマーロウの仕事の仕方からすれば、これはおかしい。

また、何度読んでも分からないことがある。カンザスシテイから来た探偵との食事の場面で、相手から、「お前は、岩に挟まったアワビ取りのように動きがつかないんだ」と言われた時に、マーロウが激怒するという場面である。チャンドラーの作品は全て読んでいるけど、マーロウや、短編の中で別の名前で出てくる主人公が、だれかの言葉にこんなに激しく反応する場面は思い出せない。チャンドラーは、何か、アワビ取りの漁師について特別な事件でも経験しているのだろうか。

そういういろいろと不可解なことの多い作品ではあるが、やはりチャンドラーらしさというのは大きな魅力で楽しめることは間違いない。翻訳ではなかなか味わえない会話を以下にあげてみる。

依頼人の秘書のすごい美人が訪ねてきたときのやりとりである。

“Christian Dior” ……”I never wear anything else.…….”
“You are wearing a lot more today.,,,,,,”
“I don’t greatly care for passes this early in the morning.,,,,”
……
She tossed me a manila envelope, “I think you’ll find everything you need in this.”
“Well, not quite everything.”
……
”….You have my word for that.”
“What else do I have?”
“Oh, we might discuss that over a drink some rainy evening, when I’m not too busy.,,,,


なお、翻訳者の清水さんは、あとがきで「プレイバック」というタイトルの意味がわからないという趣旨のことを書いておられるが、単に、前に一度起きたことと同じことがまた繰り返される-プレイバック-ことへの恐怖を題材にしているから、そいういうタイトルにしたということのように思えるがどうだろうか。
posted by chobi at 17:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月24日

悲劇の天才 ジネット・ヌヴー

 久しぶりに室内楽のコンサートに行ってブラームスの三重奏を聴いた。それでブラームスのヴァイオリン協奏曲を聞こうと思い、名演奏はどれか、というのをネットで調べてみた。著名な音楽評論家が集まって審査した結果などというものはなくて、素人、プロの演奏家、評論家などの意見がいろいろと出てくるが、わりと多かったのが、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストの演奏だ。
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 ブラームスの協奏曲は、Prestoclassical というサイトからダウンロードした。ソナタとの2曲で約1500円。シュミット=イッセルシュタット指揮、北ドイツ放送交響楽団、1948年5月3日ハンブルク音楽ホールでのライブ録音。ファイルは、Flac 393kbps 16bit 44.1kHz。約70年前の録音ー勿論モノラルーとは思えない非常に良い音質である。ヌヴーの演奏について何かを書く資格はないが、素人でも大変力強い演奏であると感じられる。

パリに生まれ、5歳でヴァイオリンを始め、15歳の1935年にヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで優勝した。この時の第2位がダヴイッド・オイストラフであった。そしてオイストラフはコンクールの後、妻に手紙で、「誰も彼女には勝てなかっただろう」と書いている。翌年、ニューヨークでデビューし、一躍スターとなったが、戦争のために演奏活動は中断され、1945年になってロンドンでのデビューを果たした。しかし、1949年30歳で航空機事故により亡くなった。

 1949年10月28日、パリのオルリーからニューヨークに向けたエール・フランスのロッキード・コンステレーション機は、経由地のサンタマリア空港があるアゾレス諸島のサン・ミゲル島で墜落した。乗客乗員48人全員が死亡した。ジネット・ヌヴーは、兄でありピアニストであるジャン・ヌヴーやミドル級の世界チャンピオンであるマルセル・セルダンと共にこの飛行機の乗客であった。ヌヴーがセルダンにヴァイオリンを見せている搭乗直前の写真というのがある。(Aviatechno.netの記事から)

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 ヌヴーについて書かれているものを見ると、遺体はストラディバリウスをしっかりと抱きしめていたというようなことが書かれているのが多いが、誤りである。

 ヌヴーは、ストラディバリウスとガルダニーニを持っていて、2つのヴァイオリンを2重ケースに入れていたが、このストラディバリウスは、アントニオ・ストラディバリウスではなくて息子のオモボロ・ストラディバリウスの作であった。また、ケースは、事故後にアゾレスの農民が持っていたのを発見され返還されたものであって、遺体が抱いていたということはなかった。

パリのヴァイオリン工房の主人のエテイエンヌ・ヴァテロが、1982年にテレビ番組でこのヌヴーのヴァイオリンについての証言をしている。

 「エール・フランスの事故調査委員会の人がヴァテロの工房を訪ね、ヴァイオリンケースを持ってきた。ケースは、1本の壊れた弓ともう1本、ロンドンのヴァイオリン商”Hill and Sons”の銘があり、金と鼈甲で装飾された弓が入っていたが、他には木屑一つなかった。委員会の人に、どこで見つけたのかを聞くと、山の周辺で残骸を調べている時にヴァイオリンの音が聞こえたので、その家に行くと一人の男がその弓でヴァイオリンを擦っていたので、質問したら、それは見つけたものだと答えたという。ヴァイオリンはどうしたのかと聞くと、委員会の人は、「それはまあ、ヴァイオリンは、すごく古く見えた(Vous-savez? Il avait l’air tellement vieux.)」と答えた。ヌヴーのヴァイオリンが生き残っているかどうかは誰もわからない。」

 以上がヴァテロの番組での証言であるが、この後、興味深い事実が紹介される。ベルナール・ランジェッセンというピアニストが出演し、「事故後現地に赴いた在リスボンのフランス領事が事故翌日に一人の漁師がヴァイオリンの頭部(スクロールと言う)を持っているのを見つけた。これがそのスクロールだ」と言って、ポケットから取り出して、ヴァテロに見せると、ヴァテロは、非常に感動した表情で、「間違いなくヌヴーのヴァイオリンのスクロールだ。普段はメガネをかけるけど、これはメガネなしでもわかる。信じられない。自分の父親が、アメリカに行く前にヌヴーに売ったガルダニーニだ。ストラディバリウスではない。」と証言する。番組には、アイザック・スターンも出ていて、感極まって涙を見せるヴァテロの肩に手を当てて、スターンが慰める場面が見られる。

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 ヌヴーの2つのヴァイオリンの運命は不明であったが、このヴァテロの証言で、ガルダニーニは破損したことがわかった。一方、ストラディバリウスの方は、もしかしたら、ケースと弓を持っていたアゾレスの男が持っていたものかもしれない。ただ、ケースは壊れていないのに、ガルダニーニは壊れていたので、ストラディバリウスも同じ運命をたどったのかもしれない。今だったらこのアゾレスの男、つまりケースと弓を持っていた男に、どういう形でケースや弓を見つけたのかなどを質し、さらなる追求が行われたであろうが、いかんせん戦後間もなくの1949年のことであり、放置されてしまったものと思われる。

 下世話な話になるが、調べてみると、アントニオ・ストラディバリウスは、数億円。オモボロ・ストラディバリウスでも1億以上はするらしい。ガルダニーニは少し落ちるが、1億くらいはするとのことである。

 ヌヴーはガルダニーニをアメリカに行く前に買っているが、オモボロ・ストラディバリウスはいつ買ったのだろうか。1890年創刊の英国のThe Stradという弦楽器に関する雑誌によるとヌヴーがガルダニーニを買ったのは、1935年にヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場する前だとされている(2013年2月号)。ジネットはこの時まだ15歳だし、家は金持ちではなかったはずで、一体どうやってオモボロ・ストラディバリウスを買ったのだろうか。当時は、それほど高くはなかったのだろうか。

 さて、ヌヴーはさらに不幸な目にあう。遺体が取り間違えられたのである。しかし、幸い、1ヶ月後に本当の遺体が見つけられ、ペール・ラシェーズというパリの東部にある墓地に埋葬された。

 また、1956年にパリの18区に新たな道路が作られ、ヌヴーを悼み、ジネット・ヌヴー通りと命名された。その道は、クリニャンクールの蚤の市とパリの環状線を挟んで対角線上にある公園の周りの道である。パリに住んでいた時に蚤の市は結構行ったが、当時はヌヴーのことなど知らなかったので、ヌヴー通りに行ったことはない。誠に残念なことをしたと、今では、思う。
posted by chobi at 20:06| Comment(1) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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